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#インタビュー

がんで仕事を辞めざるを得なかった経験から社会の中で生きることの大切さを実感!

2017.07.19

乳がんを経験した増田美加が同じ乳がんサバイバーをインタビューする連載2回目。がん罹患と就労について、多くの道を切り拓いてきた先駆者、桜井なおみさんにお話を伺いました。「働き盛りのがん経験者にとって仕事はアイデンティティ」と話す桜井さん。がんになっても働くことの大切さをご自身の体験とともに伺いました。

インタビュー・執筆/増田美加(女性医療ジャーナリスト)

桜井なおみさん

さくらいなおみ/キャンサー・ソリューションズ(株)代表取締役社長。一般社団法人CSRプロジェクト理事、NPO法人HOPEプロジェクト理事長。社会福祉士、精神保健福祉士、技術士、産業カウンセラー。大学で都市計画を学んだ後、コンサルティング会社にて、まちづくりや環境学習などに従事。2004年、30代で乳がんの診断を受ける。その後、がん体験者・家族の社会支援活動を開始。
「CSRプロジェクト」http://workingsurvivors.org/と両輪になって、実際の患者雇用や職業紹介を行うのが「キャンサー・ソリューションズ」http://www.cansol.jp/

進行した乳がんでしかも特殊がん。
情報がなく途方に暮れて

2004年7月6日、37歳のときに乳がんと診断された桜井なおみさん。乳がんはどのようにして見つかったのですか?

私が初めて乳がん検診を受けたのは、35歳。職場検診で視触診だけの乳がん検診を受け、このときは異常なしでした。思春期のとき叔母が乳がんで亡くなり、父はすい臓がんにかかっていたので、ずっとがんは死ぬ病気という怖さがあり、30代でしたが乳がん検診を受けました。

2年後の37歳の6月に受けた乳がん検診の視触診で、「あれっ」と医師に言われ、マンモグラフィとエコー(超音波)を受けることになったんです。エコーでも右の乳房に「何かある」と言われ、結果が出るまではしんどかった...。細胞診の結果が出るのは約1か月後。それまで、体の中にエイリアンみたいなものがいるような感覚でした。

7月6日、医師から「悪性腫瘍」ですと言われ、「がんってことですか?」「そうです、がんです」と言われたときは、「ガーン」とダジャレを言おうと思っていましたが、実際には口に出すことはできず、頭の中は真っ白に...。

ステージⅡ期と言われました。叔母が乳がんで亡くなっていたこともあったので、「死」が目の前にあることを実感しました。

がんとわかって、そのあとに行動したことは、どんなことだったのでしょう?

治療する病院探しです。自分を守るため、最悪の状況を考えてそれに対応してくれる病院を探しました。自宅の近く?それとも職場の近く?いくつかの病院をインターネットで調べ、最終的に決め手になったのは、医師の言葉でした。同じころ偶然にも父がすい臓がんのあと、歯肉がんと診断され治療を待っている状態。

医師はそのことを問診票から読み取ると、「ご家族のことも心配だったでしょ」と患者だけでなく家族も含めた配慮をしてくれたことで、「この先生OK!」と思いました。がんという病気の対策についても紙に書いて説明してくれて、がんには手立てがあるということがわかり、希望を持たせてくれました。

治療方針は、どのような内容だったのですか?

ステージⅡ期の進行がんに加えて、私の場合、乳がん全体の中でも2%程度しかいない特殊な乳がん(粘液がん)であることもわかったんです。特殊がんだったため、調べても情報がなく、途方に暮れました。

粘液がんは、抗がん剤が効きにくいかもしれないということで、先に手術をすることになりました。乳房全摘、リンパ節を27個切除。術後の病理検査の結果で、リンパ節転移はありませんでしたが腫瘍径が大きかったので、抗がん剤を行うかどうかの決断を迫られました。抗がん剤を投与すると妊孕性(妊娠、出産)がかなり失われるため、産むリスクと再発のリスクを天秤にかけなくてはならないつらい決断でした。1週間考え、子どもができても母親が死んだらとか、養子縁組という選択もあるからと、抗がん剤を決意。妊娠出産はあきらめました。

9月から翌年1月まで約4か月間、6回の抗がん剤治療を行い、その後2月の節分の日からホルモン療法をスタートしました。

仕事は私のアイデンティティでした!

桜井さんの仕事復帰はどのタイミングからだったのですか?

抗がん剤治療前に、検査や入院などで40日分の有給休暇はほとんど使い果たしていました。そこで、抗がん剤治療中は、「傷病手当金制度」を利用して、給料の約70%をもらって休職することにしました。無理して復職して欠勤になると、かえって給料が下がってしまうこともありますので、ぜひこのような社会制度を使われるといいと思います。

会社に復職したのは4月からでした。設計事務所でしたので、設計図面をPCのマウスで作成することが多く、リンパ浮腫でむくんだ右手ではうまく操作できません。また、建設現場調査で山の中に入ったりすることもあるのですが、リンパ浮腫があって虫にさされてはいけない、転んではいけない、労災適用になったらまた会社に迷惑をかける?とどんどんドツボに陥ってしまいました。考えがまとまらず、うつ状態も経験。結局、がん治療の後遺症に悩まされ、退職せざるを得ませんでした。

この仕事に就きたくて大学も変えたほどでしたから、仕事は私のアイデンティティでした。自分のアイデンティティと生きがいを失い、苦しくて心が折れました。

当時は、働く悩みを相談する場がなく、働く世代のがん患者が同世代の人と共通の課題を話し合うこともできませんでした。体験を共有することと、ひとりではないことを知ることは、がん罹患後の生き方を考えるうえで大切な支えです。

そんなつらい思いをしていたころ、会社を辞める直前の2006年ですね、HOPEプロジェクトを立ち上げられたのは。がんサバイバー(経験者)の方々が中心になって立ち上げたHOPEプロジェクトは、その後の桜井さんの活動の始まりになりましたね?

はい。がんという病を患い、生きる意味を改めて見つめたサバイバーたちと出会って、HOPEは設立されました。

調査などの研究成果をもとに、がんなどの難病に対する理解や社会参加を促す支援やサービスを提供し、交流を広げるのが目的です。病気の有無にかかわらず、人生を精一杯生きて、希望する形で人生をまっとうすること。その実現に向けて支援する会です。

手術をした側の胸壁に病変がみつかって...

2007年は、会社を退職された翌年で、すぐにHOPEをNPO法人化して、軌道に乗せようとしていた時期ですね?

はい、そんなときでした。右の胸壁にがんのようなものが見つかったのは。医師からは5年以内に再発するリスクが60%と言われていましたので「キターッ」と思いました。最初の治療から3年後でした。

私の転移疑惑がわかる直前に、一緒にHOPEを立ち上げた友人が肺がんで亡くなり、ショックでした。新聞記者だった彼女は亡くなる直前まで記事を書いていました。社会とつながっていたかったのだと思います。

右側の筋肉を切除し、調べた結果は良性の腫瘍。
治療後、東京大学医療政策人材養成講座に入り、「がん罹患と就労」の調査研究を始めたのです。

それが、"がん患者の就労と雇用"に関する政策提言や課題解決を行うためのキャンサー・ソリューションズやCSRプロジェクト設立につながっていきました。

がんになっても働きたい人を支えたい!

桜井さん自身ががんの後遺症で仕事を辞めざるを得なかった経験を生かして、同じような思いや経験をする人たちを支援したい、という活動につながるのですね?

私は、がんの後遺症で仕事を辞めざるを得ませんでしたが、就労支援は人と人をつなぐ仕事です。

今3人に1人が、がんで仕事をやめています。4人に1人が働き盛りの20代~50代でがんに罹患する時代です。

前向きに治療を続けるうえでも、自分のアイデンティティを維持するためにも、働く意欲のある人は、がんになっても仕事を続けられることが重要です。今、がんは治る時代になり、通院で治療するケースも増えています。これは働きながらがん治療を行う人が多いことを意味します。

しかし、現実は?と言えば...。

私たちが行ったアンケート調査では、がん経験者の就労意欲は高く、85%が仕事をしたいと答えています。その一方で、3人に1人ががん診断後に転職、解雇、依願退職をしていて、4割は診断後に収入が減っている実態が明らかになっています。

がん治療をしつつ働いている人は32.5万人です。治療を続けながら働き続けることの難しさ。がん患者に対する社会の偏見。常につきまとう死の不安...。

この問題に真正面から取り組んでいます。がんを経験した私だからできることもあるかもしれない...。人生に無駄はないとつくづく実感しています。

次回、後編では、もしもがんになって仕事を続けることが困難になったとき、どんなことに気をつけたらよいのか、どんな情報を集めたらいいのか、具体的な方法をお話しいただきます。

『がんと一緒に働こう!』(合同出版)
桜井さんが理事を務める「CSRプロジェクト」http://workingsurvivors.org/
が作ったがん患者の就労を応援する本。

後編はこちら