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#インタビュー

乳がんを含めた3回の大病を乗り越えて自分が輝けるのは、
車いすバスケがあるから。

2019.07.18

意思あるところに道は開ける。車いすバスケットボール2008年 北京パラリンピック競技大会日本代表 藤井郁美さん

車いすバスケの全日本代表として活躍する藤井郁美さん。2度の大病を乗り越え、息子さんが生まれた1年後に乳がんが発覚します。妻として母として、そしてアスリート全日本代表として、どのような思いで乳がんと向き合い、術後わずか10日で復帰されたのか。乳がんが分かってからの経緯や、現状などを伺いました。

藤井郁美さんのプロフィール写真
Profile

藤井 郁美選手

1982年11月生まれ。神奈川県横浜市出身。小学生からバスケットボールを始める。
15歳の時に右下肢機能障がい・疾病に。19歳の時に胃潰瘍性大腸炎になり、大腸を全摘出。
高校時代のバスケ部の顧問の紹介で、20歳の時に車いすバスケットボールを開始。
宮城県仙台市に移住し、男子チームの宮城MAXでトレーニングを行う。
2008年北京パラリンピック4位、2010年アジアパラリンピック優勝、2016年リオデジャネイロパラリンピック予選会から現在に至るまで、全日本車いす女子バスケット女子チームのキャプテンを担うことも。2017年に乳がんと診断され、右の乳房を摘出。
家族は、宮城MAXのチームメイトである夫と子供が1人。電通デジタル所属。

母乳をあげているときに
違和感を覚えた

車いすバスケの選手として活躍されていた一昨年、乳がんの手術をされました。最初、どのような兆候があったのでしょうか。

2015年に長男を出産し、母乳をあげているときに胸が少し張っているような気がしました。でも、インターネットで調べても、母乳の時期は胸が張ると書かれていたので、そういうものかと思い、放置していたのです。

子供が1歳になって母乳の時期が終わった頃、胸の張りは小さくなっていきましたが、気になっていた部分のしこりが徐々に大きくなっていきました。次第にコリコリしたものが大きくなっていったので、ずっと「病院に行きなよ」と言ってくれていた夫に触ってもらったんです。「うーん、大きくなっているよね、やっぱり一度病院に行ってきたら」と言われ、昨年6月にやっと個人病院に行きました。エコーを撮ってもらうと、乳管の部分に何かあると診断され、家から近い仙台の医療センターを紹介してもらいました。

練習や合宿で日々忙しくしていたので、1日で終わらない検査を受けるにも、検査結果を聞きに行くのも、スケジュール調整が大変でした。何とか調整して病院に行き、マンモグラフィや細胞診などの検査を一通り受けました。

その時点では悪性だとは思っていなかった?

はい、全く。だから、7月の合宿が終わった後に1人で検査結果を聞きに行ったんです。すると先生から「手術して病理で検査しないと分からないが、乳管内にガンがあり、多分悪性だろう」と言われました。

突然の告知にびっくりして、もう何が何だか分からなくなりました。泣きながら夫に電話したことだけ覚えています。彼もとても驚いたと思いますが、「とにかく気をつけて帰っておいで」と言ってくれて......。

目の前が真っ暗になって心が折れそうになりました。2人とも相当落ち込みました。なぜなら私にとって、人生で3回目の大病だったからです。

2回の大病を経て、
車いすバスケと出会う

最初は車いすバスケを始めるきっかけにもなった、右足の骨肉腫ですね。

小学生でバスケを始め、バスケのスポーツ推薦で高校進学も決まっていました。そんな中学卒業を目前にしたとき、右足がだんだん腫れていき痛みも出てきたのです。病院で診てもらうと、骨肉腫だと診断されました。結局、ひざ関節と大腿骨の一部を腫瘍と一緒に切除し、膝を人工関節にする手術を受けることに。歩行はできますが、走ることができなくなり、バスケを続けることも難しくなりました。まだ15歳だったし、そんな現状を受け入れられず、大好きなバスケができなくなったことは、とても悲しくて辛かったことを覚えています。

高校進学後はバスケ部のマネージャーとして過ごし、人のことを考えて動くような、コーチと選手の橋渡しの役目も担いました。障がいを持った自分でも役立つことがあると知った高校生活でしたし、その後、車いすバスケの選手になってキャプテンとしてチームをまとめることになったときは、マネージャー時代の経験が生きていると思いました。

そんな高校3年の19歳の時に2回目の大病をしました。潰瘍性大腸炎になって、大腸を全て摘出したのです。バスケができる・できないどころではなくなり、生き死にに関わる状態でした。

おかげさまで手術がうまくいって高校も卒業し、しばらくはアルバイトをしていました。そんなとき、ふと高校時代のバスケットの顧問に車いすバスケをやるように勧められたことを思い出しました。その顧問が車いすバスケの審判を兼任しており、また、知り合いのベテラン選手にも「君なら日本代表になれるよ」と勧められたこともあり、20歳の時に、地元横浜のクラブチームでプレーすることになりました。

ただ最初は、日常生活で車いすを使っていないので、車いす操作も分からない状態でした。初めはシュートがリングに届かず、面白くなかったですし、それに葛藤がありました。健常者としてプレーしていた経験があるので、車いすバスケなんて...という思いがあって。でも、何度か練習に通ううちに、病気で諦めていた選手としてコートに立つ喜びを感じて、夢中になっていきました。

乳がんの告知で
折れそうになった心を
支えたもの

2006年に初めて世界選手権に出場しましたが、個人としては結果が出せず、チームも6位という非常に悔しい結果に終わりました。それがきっかけで、成長するためには環境を変えなければと思いたち、「宮城MAX」という男子チームの岩佐義明監督のもとで学びたいと考えました。男子チームで練習すれば実力がつくはずだと、思い切って宮城県に移住しました。

チームの練習はやはりハードで、必死にトレーニングに耐えてきました。そのおかげで自身の実力は上がり、世界で勝ちたいという思いが日に日に大きくなっていきました。

こうして2回の大病を乗り越え、車いすバスケ選手として活動し、29歳の時にチームメイトと結婚して子供も生まれました。母として、アスリートとして、さあこれから!というときに乳がんという厳しい現実を突き付けられ、私は愕然とするしかありませんでした。「今ここで?まだ(病気に)なる?」と。しかもこれまでとは違い、「子供という守るべき存在ができた状況で乳がんになるなんて......神様は残酷だな」と思いましたね。病気をするたびにそれなりにメンタルは強くなっているはずでしたが、やっぱり落ち込みました。それからは、転移していたらどうしようと悪いケースばかり考えるようになり、毎日毎日が襲いかかってくる死の恐怖との戦いでした。しばらくは夜も眠れない日々が続きました。

そんな藤井さんを支えたものは何ですか?

やっぱり、このまま夫と息子の2人を置いて死ねないという気持ちだったように思います。2人のためにも生きなければいけない。その思いが、折れそうになる気持ちを必死に支えていました。

主治医の先生の言葉も支えになりました。先生は最初から「早く競技に復帰させてあげたい」と言ってくれました。そんな先生の言葉に最初は、復帰する・しないの問題ではないのに......ともどかしく思っていましたが、何度も復帰させてあげたいと言い続けてくださったおかげで、次第に不安が軽減していき、「じゃあ、私は大丈夫なんだ、すぐ復帰できるんだ」という希望が持てるようになりました。

それに先生は、最初から「ステージ」というがんの進行状況を特に話されませんでした。私自身も聞かなかったけど、「それを聞いたところで何か変わるわけではないし、治療も変わるわけではないから」と先生がおっしゃってくださった。「聞きたかったら教えるけどね」というスタンスは、私の不安な気持ちを鎮めてくれました。

また、骨肉腫でがんセンターに入院していた15歳のときに、同じ部屋に乳がん患者が多かったという経験も救いになりました。手術して乳房を取った患者さんたちはリハビリをして元気になって、比較的早くに退院していったんです。だから自分がもし手術で乳房を取ることになっても、転移さえなければすぐにバスケに復帰できるかもしれないと思えることができました。

それでも突然、「転移していたらどうしよう」という不安が襲ってきましたね。ぐるぐると堂々巡りの状態が続きました。

8月に結果を聞いて、9月上旬に手術をされました。

結局、右の乳房を全摘する手術になったのですが、手術後、先生から「今、乳がんだと分かって君はラッキーだったよ」と言われました。違和感があったときにインターネットなどの情報を鵜呑みにせず、もっと早期に検査に行っていれば全摘にならなかったかもしれません。でも先生にラッキーだったと言われて、「そうか、やっぱり早期の範囲だったんだ」とほっとしたことを覚えています。

術後10日後にコートに
復帰したわけ

手術後、驚くほど早くに復帰されています。

そうなんです。というのも10月に、アジアオセアニア予選という大きな試合があり、それに出場するために手術を合わせたという経緯もあったからです。だから手術して10日後に練習に復帰しています。

先生も、手術後に病室へ来て、「暇でしょう?今から体育館に行って練習して来ていいよ」とおっしゃるんです。ドレーン※1がまだ入っているのに(笑)。でもそれだけ1日でも早く復帰できるように、大胸筋を傷つけないようオペに時間をかけてくださったということでした。

今でも1年検診などに行くと、「ダメだよ〜、あの国に勝たなきゃ」などといいながら、応援してくださっています。いいお医者さんに出会って本当によかったです。

リハビリもしないまま、練習に復帰しましたが、最初は胸回りの筋肉が動かないし、非常に痛かったです。レイアップシュート※2をやってみようかなと思っても、思うように腕は上がらないし、とにかく痛い。もう、止めておこうと一つひとつ確かめていく感じでした。一方、通常のシュートは意外におっぱいがないほうが打ちやすいな、まっすぐ腕が上がりやすいな。など、自分の状況を冷静に分析して楽しんでいましたね。

※1 ドレーン...手術後に創傷部にたまった液、尿などの排出に用いる排液管

※2 レイアップシュート...ドリブルでリングに近づき、ボールを下から持ち上げてシュートを打つ方法。

それはなぜでしょうか?

2016年のリオデジャネイロパラリンピックの予選からキャプテンを務めていますが、実際にオペをする前は、手術後はすぐキャプテンとして復帰したいと考え、競技者モードに戻るだろうと思っていました。でも、術後の自身の胸を見て、やっぱりすぐには競技者の思考には戻らなかった。一方、キャプテンである以上、責任があるので、すぐチームに戻らなきゃというプレッシャーに近い思いがありました。そんなキャプテンとしての思いと、実際の自分の気持ちが乖離していて、苦しかったです。やりたくないと言える立場だったらラクなのにと思う一方で、やりたくないなんて言いたくないという自分もいて、葛藤していましたね。

なぜそこでラクな方を選ばなかったのでしょうか。

うーん、やっぱり、勝ちたいんでしょうね、世界に。今まで仲間と一緒に世界の舞台で勝つために頑張ってきて、実際にその大舞台に自分がいないという絵を想像すると、悔しいんです。世界で勝ちたいという思いは物凄く強いと思います。負けず嫌いなので。

病院のベッドの上で、練習できるんじゃない?と思える日があったり、いやいややっぱりしんどい...と思う日があったり、その繰り返し。本当の自分の気持ちを確かめるためにも、早めの段階で体育館に行こうと思いました。

術後10日で復帰したときには、さすがに「プレーせずに車いすに乗っているだけにしろ」と、普段は厳しい岩佐監督に言われましたが、いざ練習を始めたら、「あ、できるじゃん!」と調子に乗ったときもありましたね(笑)。復帰した翌週、秋田県能代で行われた代表合宿に参加したのは、チームのみんなに自分は大丈夫という姿をアピールしたいと思ったからです。何とか10月の国際試合に間に合わせたという感じでしたが、監督もよくこんな私を起用してくれたなと思いますね(笑)。

失望から希望へと変えてくれる車いすバスケ

手術して1年半経ちましたが、現在の体調はいかがですか?

ホルモン剤を10年飲むことになっています。飲み始めてから頭痛やダルさなど疲労が抜けないような感じで、ハードな練習をすると息がハーハーと上がります。すごく汗をかくこともある。年齢のせいもあるかもしれませんが、薬が原因だと思います。

乳がんになったからと食事や睡眠を変えたということはなく、特別な健康法もありません。トップアスリートとして、脂っこいものは摂りすぎない、良質な筋肉をつくるために豆乳を飲むなどの心がけは昔から意識していましたし、試合でベストパフォーマンスを発揮できるためのコンディションづくりは、アスリートとして当然です。この病気と付き合いながら世界の舞台で戦い抜くためには、そうした日々のコンディションを整えるといった毎日の積み重ねしかなく、乳がんにもいい影響を及ぼせばと思っています。

病気のために何か節制しなければいけないと考えるのは、しんどいんですよ。変な話、3回も大病をして思ったのは、何をしていても病気になるときはなるんです。だからそこまで神経質になる必要はないと思っています。

車いすバスケは、自分にとってどういう存在ですか。

正直、よく分からなくて。引退後に「車いすバスケは、ああ、こういう存在だったな」と、自分に何をもたらしてくれたかが分かると思うんですね。でも......、病気にならなければもちろん車いすバスケには出会ってなかったし、別の人生を歩んでいるはずです。そう思うと、今は本当に生活の一部だし、生きていく上での原動力になっている。車いすバスケをやっていたから様々な人々と出会えたし、人として学べることもたくさんありました。来年の大会を目指している自分もいます。乳がんを含め、3回の大病と戦って失望しそうになる私に、もう一度希望を持たせてくれるような、輝かせてくれる場所を作ってくれた存在であることは間違いないと思います。

これから乳がん検診を受けようかと考えている方にアドバイスをいただけますか。

やはり早期発見が自分にとって、そして家族にとっても一番いいと思います。それには、インターネットだけの情報に惑わされないで、正しい情報は何かと考えるようにし、迷ったときは自分だけで判断せず、早めの検査をお勧めしたいです。定期的なセルフチェックをするだけでも違うように思います。

インタビューを終えて

2度の大病を乗り越え、子育てをしながら車いすバスケの全日本代表として活躍していた藤井さん。「さあこれから!」という時に、乳がんという3度目の大病になったことは、部外者の私でも「なんで藤井さんばっかり......」というやるせなさが心に残ります。さらに「家族」という守るべきものと、「夢」という攻めるべきものを頭に浮かべながらどれだけ不安に苛まれ、葛藤されたのかと思うと心が痛みます。しかし、そんな「家族」と「夢」があったからこそ、驚くほど早く頭を上げて前を向き、3度目の大病を乗り越えられたのではないかとも思うのです。少しでも早く競技に復帰するように促した主治医との出会いも、前進を阻む不安を小さくし、彼女の背中を押したことは確かでしょう。

車いすに乗ってコートを縦横無尽に駆け回る藤井選手の姿と、数々の困難に立ち向かってきた彼女を支えてきた応援団の姿が想像できます。右の乳房の摘出手術からわずか10日でコートに立ったキャプテンがどんなプレーで全日本チームを牽引してくれるのか、今から楽しみです!