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妄想本棚 第3回「上原ひろみ」

ブックディレクター・幅 允孝が「誰か」の本棚を激しく妄想。仮想本棚の中から何冊かを紹介します。

 誰かの家にある本棚の中身を勝手に妄想してしまおうという「妄想本棚」も第3回目になりました。今回とりあげる女性は、富山のあるバーで出会った方です。
 昨年末、富山市に仕事で行ったとき桜町にある「ジェリコの戦い」という老舗ジャズバーに偶然入ったのです。「ジェリコの戦い」といえば、旧約聖書に登場する戦争のことで、古代イスラエルを統べたヨシュアがカナン人の都市ジェリコを攻略したときのこと。と同時に、コールマン・ホーキンスなどの演奏で知られるジャズのスタンダードナンバーでもある。味ありの手描き看板を見ただけで、どんなお店かワクワクしてしまい、すーっと2Fの店内に吸い込まれていきました。
 扉を押し開けて薄暗い店内を見渡すと、そこはまさに昔ながらの古きよきジャズバー。真空管アンプを通して流れるジャズ・ジャイアンツの名盤は心地よく、多くの人が通り過ぎてきたカウンターの木の風合い、少しだけくたっとしたファブリックのハイチェアー、丁寧にシェイクされたジンフィズ...と心地よさのオンパレードに時間を忘れて時計の針は頂点を超えてしまいました。そんな時です。
 今までは巨匠と呼ばれるプレイヤーたちの安定した演奏が続いていたのですが、急に鳴りだした音が(まさに現在進行形の)鮮烈さで。思わずマスターに「誰のレコードなんですか?」と聞いてしまいました。そして、教えてもらったのが「Spectrum」という上原ひろみの最新アルバムだったのです。
 「色」をモチーフにしたという10年ぶりのピアノソロアルバムは多様の渦ともいえる音の洪水で、強くてキレのある音だけでなく、柔らかい音、かわいらしく円みのある音が重なり積層していました。連弾曲をほとばしるように弾いたかと思えば、ビートルズの「Blackbird」をカバーしたり、ガーシュウィンの「Rhapsody in Blue」をコルトレーンの「Blue Train」、ザ・フーの「Behind Blue Eyes」と「青」色ミックスさせて20分を超える大曲にしてみたりと、まさにピアノの鳴らせ方の自由を高らかに謳うよう。圧巻でした。そして、そんな音楽に耳を傾けていたら、勝手に妄想が広がってきたのです。  まず思い浮かんだのは大橋裕之の『音楽』というマンガです。大橋は「ちょっと情けない人間を描かせたら世界一」と(僕が)勝手に評しているマンガ家なのですが、メジャーデビュー前に自費出版で作った作品が、アニメ映画化のタイミングで新装版になりました。
 これは、どこか分からぬ田舎町のヤンキーのお話。まったくの楽器素人である彼らが思いつきでバンドを始め、作為を通り越えた音楽の境地に偶然到達するのだけれど、すぐさまそこを通り過ぎてディズニーランドに行く物語。という、筋だけ聞いてもよく分かりませんよね。

『音楽』『音楽 完全版』 大橋裕之 カンゼン
 ただ、彼らが最初に音を合わせた時の衝撃。弾けないのに出し続ける音の原初的なグルーヴ感が、不思議な画風から確実にあなたに届くのです。そして何よりも大橋のマンガは間合いがすごい。溜めて溜めてぼそっと繰り出されるセリフの効果や、一方で読者にこれでもかと畳みかけるような大音のうねりが正に「ジェリコの戦い」で聴いた上原ひろみ的なんです。こんな素人バンドの物語、怒られてしまうかなぁ。

 次に妄想する上原さんの本棚は、一転とても静謐なヴィルヘルム・ハマスホイの1冊。「沈黙の画家」とか「北欧のフェルメール」などと呼ばれるデンマーク出身の絵描きが、その静かで雄弁な世界をどう形づくったかを伝える本書は、現在日本を巡回中のハマスホイ展の副読本としても読んでいただけるはずです。
『ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画』『ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画』 佐藤直樹(監修) 平凡社
 1864年に生まれたこのデンマークの異端児の作品の中でも特徴的なのが、モチーフとして繰り返される誰もいない部屋の風景や女性の後ろ姿。これらは風景画の伝統から逸脱しているのに、なぜか多くの人を惹きつける作品です。誰かがいた空間の余韻や顔の見えない人の背中は、鏡のような役割を果たします。鑑賞者のイマジネーションを試すように。本書の中でピアニストのレナード・ボーウィックは「この画家の作り出す雰囲気に我々を調律するのには時間がかかる」と言っていますが、じっくりと時間をかけながら、ありふれた風景と光の中に物事の深淵を探求する姿勢は、10年という日々を熟成させてピアノソロアルバムを完成させた上原と重なります。しかも、「静寂の奥の秘密」を描きたかったハマスホイと同じように、上原にも多様な色の向こう側にある何かを弾きたかった気がするんだよなぁ。
 という勝手な妄想からひろげる誰かの本棚。今回はこの辺りにしたいと思います。  


幅允孝

幅允孝
有限会社BACH(バッハ)代表。ブックディレクター
人と本の距離を縮めるため、公共図書館や病院、動物園、学校、ホテル、オフィスなど様々な場所でライブラリーの制作をしている。最近の仕事として札幌市図書・情報館の立ち上げや、ロンドン、サンパウロ、ロサンゼルスのJAPAN HOUSEなど。近年は本をリソースにした企画・編集の仕事も多く手掛け、JFLのサッカーチーム「奈良クラブ」のクリエイティブディレクターを務めている。早稲田大学文化構想学部、愛知県立芸術大学デザイン学部非常勤講師。
Instagram: @yoshitaka_haba

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