妄想本棚 第4回「フローレンス・ナイチンゲール」
ブックディレクター・幅 允孝さんが「誰か」の本棚を激しく妄想。仮想本棚の中から何冊かを紹介します。
誰かの家にある本棚の中身を勝手に妄想してしまおうという「妄想本棚」も第4回目になりました。今回とりあげるのは、コロナ禍にあって最も大変な現場に身を置く医療従事者に捧げるエッセイとして、ナイチンゲールの本棚を妄想してみたいと思います。
1820年に英国の裕福な地主の家に生まれたフローレンス・ナイチンゲール。語学、哲学、自然科学、文学などあらゆるジャンルの教育を受けていた彼女ですが、ある時期に気を病んだ姉の看護をしたことと、幼少期からあった「人に奉仕する仕事に就きたい」という想いが重なって、看護師を志すようになりました。
ところが、当時の看護師は召使いと立ち位置はさほど変わらず、医学的な観点からの専門教育を受けられる場所もほとんどありません。ゆえ、ナイチンゲール自身は学び方から自分で考えていく必要があったのです。今の時代なら、ウイルスとは何か?を独学で勉強することとも言えましょうか。そこで、まず1冊目の妄想は『ウイルスの意味論』というウイルス研究者の集大成とも言える本です。
『ウイルスの意味論』山内 一也 みすず書房
著者の山内一也さんは、天然痘と牛疫の根絶に参加するなど50年以上も現場でウイルスの研究に従事した東京大学の名誉教授。自己増殖できないウイルスと細菌の違いから始まり、生物とも無生物ともいえないウイルスの不思議な存在や21世紀に入って発展したウイルスのゲノム解析などの最新成果、さらには我々の体内や周辺環境にたくさん居るウイルスとの共存など、ページを開く毎に驚きや発見が続きます。しかも、この本の語る範疇は地球の進化史、文明史にまで迫り、時には上橋菜穂子さんの『鹿の王』や澤田瞳子さんの『火定』などの文学作品まで登場するので読んでいてじつに愉快。自然科学本が苦手な人にでも免疫ができる(かもしれない)1冊です。
さて、そのように看護師の道へと進んでいったナイチンゲールですが、1854年のクリミア戦争勃発で運命が大きく変わります。前線の負傷兵の悲惨な状況を聞いたナイチンゲールは、シスター24名、職業看護婦14名を率いて戦地に赴き戦場の医療制度を変えていくきっかけをつくったのです。
ナイチンゲールが従軍したスクタリ(現在のイスタンブール近郊)では、官僚的縦割り行政の弊害で医療物資がほとんど届いていませんでした。しかも、看護婦団の到着も歓迎されていたとは言い難いもの。当時、戦争は男たちのものだったのです。ところが、ナイチンゲールはトイレの清掃という、どの部署の管轄にもなっていない点に目をつけ、衛生面での改善が死傷者を救い生還率を上げると主張。そのトイレ掃除から戦地での居場所を獲得し、実際に最前線の病院の衛生環境を整えて蔓延する感染症を抑え、死亡率を下げることに成功したのです。
ところで、戦場における女性の生き様といえば、2015年のノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を欠かすわけにはいきません。この本は第二次世界大戦中、ソ連軍に従軍した100万人もの女性のうち、生き残った名もなき人たちの証言を集めたノンフィクション。看護をした衛生指導員だけでなく、洗濯部隊や狙撃手、高射砲兵、飛行士など様々な女兵士たちは、その現場での経験を戦後ひた隠しにしなければいけませんでしたが、アレクシエーヴィチは敢えて彼女らの「厳しく、すさまじく、美しい」生き様を記しまとめたのです。
『戦争は女の顔をしていない』小梅 けいと(作画)、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ (原作) 、速水 螺旋人(監修) KADOKAWA
昨今は、それを漫画化した小梅けいとの作品も出版され、戦場の女たちの心持ちがより届きやすくなりました。クリミア戦争では敵味方同士でしたが、同じ最前線に身を委ねた女性へのリスペクトも込めてナイチンゲールの妄想本棚に加えさせてください。
そして最後に妄想する本は、何故かダレル・ハフの『統計でウソをつく法』です。この本は1950年代に出版された統計学の入門書。統計のトリックを見破ることでその本質を知るという逆説的でユニークな本なのですが、実はナイチンゲールは統計学の先駆者とも言われているのです。
『統計でウソをつく法』ダレル・ハフ(著)、高木 秀玄(訳) 講談社
というのも、ナイチンゲールはクリミア戦争終結後に病院での死亡者や負傷者数をまとめ、グラフによる視覚化をして軍に提出しました。まだ、棒グラフや円グラフすらない時代に、現代でいうレーダーチャートを用いたのです。この資料は統計的な観点から分析をしてこなかった軍の報告書制作にも大きな影響を与え、その後ナイチンゲールはイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれた程です。
さて、こんな調子で妄想してきましたが、何よりも現代のナイチンゲールたちに感謝したいと思います。「犠牲なき献身こそ、真の奉仕」という彼女の言葉は、21世紀にも確実に継がれていることを実感する毎日です。

幅允孝
有限会社BACH(バッハ)代表。ブックディレクター
人と本の距離を縮めるため、公共図書館や病院、動物園、学校、ホテル、オフィスなど様々な場所でライブラリーの制作をしている。最近の仕事として札幌市図書・情報館の立ち上げや、ロンドン、サンパウロ、ロサンゼルスのJAPAN HOUSEなど。近年は本をリソースにした企画・編集の仕事も多く手掛け、JFLのサッカーチーム「奈良クラブ」のクリエイティブディレクターを務めている。早稲田大学文化構想学部、愛知県立芸術大学デザイン学部非常勤講師。
Instagram: @yoshitaka_haba

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