2010年代
時代が求める「定番力」
“マイナス5歳ブラ”
“朝の谷間、ながもち、リボンブラ。”
がデビュー
社会背景
女性たちの流行を牽引してきたコギャル世代がアラサー、アラフォーに。それに伴い、エイジングケアへの興味も高まっていく。一方で、TwitterやInstagramなどの画像主体のSNSが流行し、「写真や動画の中で、いかに自分を美しく価値あるものに見せるか」に女性たちの関心がシフトしていく。
ファッション
2008年に「H&M」、翌年「フォーエバー21」が日本に初上陸し、ファストファッション旋風を巻き起こす。安価で流行感度が高い服が手に入るようになった一方で、「断捨離」「ミニマリズム」という“持たない暮らし”に注目が集まり、消費者は本当に必要なものだけにお金を払うようになった。
2010年発売“朝の谷間、ながもち、リボンブラ。”
ゆる~いダンスで簡単に
ブラチェックできるCMが話題に。
“朝の谷間、ながもち、リボンブラ。”
DETAIL
“朝の谷間、ながもち、リボンブラ。”

ゆる~いダンスで簡単に
ブラチェックできるCMが話題に。
“朝の谷間、ながもち、リボンブラ。”
2010年代に入り、“つぶやく”ことで気軽に、簡単に情報発信ができ、コミュニケーションが楽しめるメディアとして「ツイッター」が登場。さらに「フェイスブック」などSNSの広がりにより、インターネット上でファッション情報を気軽に発信、簡単に流行を取り入れられる時代に。ワコールではブラジャー機能に「谷間」が登場して20年が経過した2010年に、ブラジャー選びにおいて最も重要視されるポイントのひとつである、「谷間」を長持ちさせる機能を取り入れた“朝の谷間、ながもち、リボンブラ。”が発売された。新開発のキープリボン構造がキレイな谷間をメイクし、動いても谷間をキープ。いつの時代も幅広い年齢層の女性に愛されるモチーフ「リボン」と、王道カラーの「ピンク」をはじめとするパステルカラーで展開し、不況下でも明るいイメージでヒットにつながる。ブラがフィットしているかをチェックできるオリジナルダンスや歌を取り入れたテレビCMも話題に。
2009年発売“胸もと年齢マイナス5歳を
めざすブラ”
“胸もと年齢マイナス5歳を
めざすブラ”で
「ラブ、エイジング。」
DETAIL
“胸もと年齢マイナス5歳を
めざすブラ”

“胸もと年齢マイナス5歳を
めざすブラ”で
「ラブ、エイジング。」
年齢と心身のバランスに注目が集まる2009年に発売された、“胸もと年齢マイナス5歳をめざすブラ”は、40代の女性に向け、からだのエイジングケアを考えて開発された商品である。コンセプトは、「加齢によって変化する体型に応じた下着の補整機能と、より美しくみせること。」年齢を重ねた女性には、パッドで盛り上げる手法ではなく、自然な上胸のボリューム感と、すっきりとした脇のラインという微妙なニュアンスをうまく表現。「マイナス5歳」というフレーズは、「若づくり」を推奨するものではなく、「20代では出せない40代の美しさをめざす」ことの提唱として使われたもの。年齢を重ねたからだにあったブラジャーをつけることで、「今の私のからだを愛する」ことを提案した結果、「ラブ、エイジング。」キャンペーンを代表するロングセラー商品に。現在も継続して販売され、人気を得ている。
2000年代
切りっぱなしで気持ちいい!
ひびきにくい、
画期的なブラ誕生
社会背景
細分化を続ける女性たちの嗜好をわかりやすく表現するため、ファッション誌のロゴの色から“赤文字系”“青文字系”といった分類が使われるようになった。特に雑誌「CanCam」に代表される赤文字系が空前のブームとなり、より男性の目を意識した“モテ”る美がもてはやされるようになる。
ファッション
モテ系ファッションが台頭する一方で、「Zipper」「CUTiE」といった青文字系と呼ばれる男性目線を排した同姓ウケするファッションも支持された。原宿系やロリータ系といったファッションは“カワイイ”文化として世界的に支持されている。
2003年発売“Tシャツブラ<NAMI・NAMI>”
まるで肌にとけこむような
“Tシャツブラ<NAMI・NAMI>”
背中の段差もケア
DETAIL
“Tシャツブラ<NAMI・NAMI>”

まるで肌にとけこむような
“Tシャツブラ<NAMI・NAMI>”
背中の段差もケア
女性の意識、ライフスタイルやファッションが変化すると、ブラジャーにも、それまで機能の特長であった「よせてあげる」ことに加え、新たな発想、新たな価値が盛り込まれるようになる。そのひとつが2002年発売の“シャキッとブラ”。胸の骨格を左右からやさしく支えることより、無理なく姿勢を美しく見せるというもの。これにより、ブラジャーによる「美しい姿勢づくり」という新しい価値が生み出されたのである。2003年には、「背中の段差をケアする」ことを女性達の意識に植え付けたブラジャー“Tシャツブラ<NAMI・NAMI>”が発売された。アウターに透けないひびかないベージュのモールドカップといえば、夏の定番商品だが、この商品は「ひびきにくさ」をさらに追求。ボンディング(圧着)加工した生地を下着に使用した画期的な商品で、生地の端を縫製する必要がないため、切りっぱなしにできるのが特徴。ブラジャーのサイドからバックの上下が、波形にカットされた一枚の布になっているため、背中に段差ができにくく、まるで肌にとけこむように見える。この機能を打ち出すことで、女性達の意識をバストだけでなく、脇から背中にまで向けることに成功。「NAMI・NAMI」というユニークなネーミングも女性達に受け入れられるきっかけとなり、CMのコミカルな振り付けのダンスも話題に。
1990年代
バブル崩壊の不況を吹っ飛ばす、
確かな機能「寄せてあげる」
社会背景
1991年、篠山紀信撮影による宮沢りえの写真集『Santa Fe』が発売される。当時、人気絶頂であった18歳の宮沢りえが、いきなりヌードになったことで日本中に衝撃が走った。一般の女性達も「若くて一番輝いている自分のからだを残したい」と考えるようになるほどの意識改革が起こった。
ファッション
1990年代に入り、バブル経済は終焉するものの、ボディコンスタイルの女性達のパワーは衰えることなく、1991年、東京の芝浦にオープンした「ジュリアナ東京」で、それは頂点に達したと言える。その後、「ヘソだしルック」の流行など、ボディラインを意識させるファッションの流行は続く。そして、1997〜1998年には、キャミソールやスリップドレスなどの「ランジェリー(下着)ルック」が流行。この頃から、下着のアウター化が始まり、下着とアウターのボーダーラインは曖昧なものになっていった。
1992年発売“グッドアップブラ”
“グッドアップブラ”で
よせてあげて、谷間くっきり。
バストコンシャス時代到来
DETAIL
“グッドアップブラ”


“グッドアップブラ”で
よせてあげて、谷間くっきり。
バストコンシャス時代到来
からだを理想の美しさへ向けて造形し、そのからだを自らアピールするという時代と女性のマインドに、見事にマッチしたブラジャー、それが1992年発売の“グッドアップブラ”である。「ボディコンシャス」のファッションは、先に述べたように1980年代後半からブームになっていたが、よせてあげて、谷間を強調する「バストコンシャス」の時代は、この商品の登場によって到来したとも言える。コピーには「グッとアップ。アモルファスで、谷間クッキリ。」とあり、従来のワイヤーより、細く、軽く、しなやかさを備えたアモルファス・ファイバーを使い、バストを持ちあげて中央に寄せる機能を打ち出した。サイズさえ間違わなければ、誰でもきれいなバストシルエットが出せる、補整の域を超えた「造形」を可能にする、新しいブラジャーの誕生である。1992年2月の発売開始から約5年間で累計1,000万枚という、ワコール史上最大のヒットを記録。女性誌に取り上げられるだけでなく、『DIME』のトレンド商品大賞、日経流通新聞賞最優秀賞など、1992年のヒット商品として数多くの賞を受賞した。そして、この“グッドアップブラ”の登場によって、バストを大きく豊かに見せたいという、女性達の願望に拍車がかかることになる。
1980年代
バブル時代のOL像にフォーカス!
オン、オフ、で使い分けるブラ
社会背景
1980年代に入るとエアロビクスやジャズダンスなど、音楽にあわせて楽しみながらエネルギーを消費し、からだをひきしめるエクササイズが人気となる。社会的にも経済的にも安定している世の中で、それらを享楽的に楽しむ若者達のライフスタイルが大きな話題となった。1986年の男女雇用機会均等法施行により、キャリアとプライベートの両方を充実させるライフスタイルへと変化していく。1988年に創刊された『Hanako』は、アフター5や休日を充実させようとする女性達に支持され人気に。「ハナコOL」といった言葉も流行した。翌年1989年には消費税3%が導入された。また、昭和から平成への時代が移り変わる頃、バブル景気のピークを迎えた。
ファッション
フィットネスジム通いが若い女性にとっても身近になると、ワコールも、そのヘルシー志向の流れを受けた商品を開発し、ヒット商品を生み出していく。その一方、個性を強調したデザイナーズブランドや、キャラクターズブランドによるDCブランドブームが巻き起こる。バブル経済によって、物質的な欲望が肯定されたことで、ファッションのみならず、飲食、住居すべてにおいて、高級化、ブランド化が進んだ。
1988年発売“花金ブラ”“月金ブラ”“土日ブラ”
週休2日制が普及し
「胸は、気分です。“花金ブラ”
“月金ブラ” “土日ブラ”」
DETAIL
“花金ブラ”“月金ブラ”“土日ブラ”


週休2日制が普及し
「胸は、気分です。“花金ブラ”
“月金ブラ” “土日ブラ”」
週休2日制が普及し、金曜日は「花金」と呼ばれ、休日前の夜をエンジョイすることが働く女性達に定着。マハラジャなどの大型ディスコが人気となり、女性達はアフター5を謳歌した。そのような状況の中、ワコールは「気分」をキーワードにした商品で時代のニーズに応えた。女性の気分を1週間のシーン別に3つに設定、それぞれの気分に応じたつけごこちと機能性を持ったブラジャー“花金ブラ”“月金ブラ”“土日ブラ”を1988年に発売する。“花金ブラ”は「アフター5は、なにかありそう。なんて気分の日には、胸がドキッと女らしいブラ。」、“月金ブラ”は「よーし、今日はやるぞ。なんて気分の日には、胸にいつもの緊張感。」、“土日ブラ”は「仕事のことなんかもう忘れちゃった。なんて気分の日には、胸にかる〜いブラ。」と、コピーも機能面の訴求はせず、あくまで「気分」をアピールするものに。現在では当たり前のように感じられるこの画期的な提案によって、気分によるブラの使い分けを浸透させたのである。
1986年発売“ソフィブラ ここちℇ”
形状記憶合金ワイヤー使用
科学と感性を両立させた
“ソフィブラ ここちℇ”
DETAIL
“ソフィブラ ここちℇ”


形状記憶合金ワイヤー使用
科学と感性を両立させた
“ソフィブラ ここちℇ”
ワコールは、ボディコンシャスを皮ふ感覚の「ここち(心地)」で表現することを目指し、1986年に“ソフィブラ ここちℇ”を発売した。ブラジャーのワイヤーはバストメイクに有効なものだが、当時は抵抗を感じる女性が少なくなかった。補整機能をもたせながら、いかにやわらかくするかというところで浮上した「形状記憶合金」が採用された。洗濯などで多少ゆがんだりしても、胸につけると設計時の元のかたちに戻る、やわらかいワイヤーが実現したのだ。この商品のイメージビジュアルは、裸体のバストを自身の手のひらで少し持ち上げたもの。「こんな感じ…」のコピーとともに、つけごこちのやわらかさを「手のひら感覚」で表現し、コマーシャルで強くアピール。金属の新素材とブラジャーという、一見ミスマッチな組み合わせは、当時マスコミでも多く取り上げられ、約100万枚という売上を達成。「科学が胸にフィットする。」と謳った、この商品の成功は、科学と感性の融合によるものであり、その後の下着のハイテク化を促進させた。
1970年代
アメリカからやってきた
“シームレスカップブラ”
前留めって新鮮!
社会背景
1970年代に入ると「男は男らしく、女は女らしく」といった、それまでの男女の役割分担も次第に崩壊。アメリカで起こったウーマンリブ運動の影響を大きく受け、性差における一切の差別を撤廃しようというのが、基本的な主張で、ブラジャーでさえも女性差別なものとして否定されるようになり、世界的に「ノーブラ運動」が巻き起こった。1970年代後半になると、日本中の老若男女にスポーツと健康ブームが巻き起こり、ジョギングやフィットネス、そしてダイエットへの関心が高まっていった。
ファッション
1970年に大阪で日本万国博覧会が開幕するなど、経済的に繁栄すると、日本のファッションも独自の情報を発信するようになる。1970年に『アンアン』、1971年に『ノンノ』が創刊。街では、ヒッピー・ファッションの影響を受け、長髪にジーンズ、Tシャツ、パンタロンといった性の違いを感じさせないファッションが若者の間で流行し、ユニセックス現象と呼ばれた。1976年に創刊された『ポパイ』は、アメリカ西海岸発のスポーツやアウトドアライフを紹介。若者の間でスポーツが大流行し、それにまつわるファッションアイテムも人気となる。サーファーファッションが流行し、日焼けした肌にタンクトップ、ショートパンツ、素足にスニーカーのサーファーガール達がさっそうと街を闊歩した。
1978年発売“フロントホックブラ”
「女には、前と後ろが
あるのです。」で話題をよんだ
“フロントホックブラ”
DETAIL
“フロントホックブラ“


「女には、前と後ろが
あるのです。」で話題をよんだ
“フロントホックブラ”
1978年、空前のブームを巻き起こすブラジャー“プリリブラ・フロントホック”が誕生した。前留めのフロントホックをワコールとして初めて採用し、年間約280万枚販売という、目標の7倍にあたる売上を記録。うつむき加減に前でホックを留める仕草が、それまでになかったセクシーな魅力が感じられ、「女には、前と後ろがあるのです。」という意味深な宣伝コピーも話題をよんだ。すっきりとした背中は、Tシャツやタンクトップなど、当時のファッションの流行とも合致し、その人気に拍車をかけた。1979年には、広告戦略として、映画『エーゲ海に捧ぐ』とタイアップ。「エーゲの風、胸もとに。」のコピーとともに、大々的なキャンペーンを行った。キャンペーンソング『魅せられて』も大ヒットし、商品の機能と感性、そしてメディア戦略が見事に連携し、相乗効果となった結果の成功であったと言える。
1972年発売“シームレスカップブラ”
ファッション目線で提案し
女性の意識を改革した
“シームレスカップブラ”
DETAIL
“シームレスカップブラ“


ファッション目線で提案し
女性の意識を改革した
“シームレスカップブラ”
ボトムの流行がミニからパンタロンへ移り変わった1970年代前半。トップにニットを合わせるコーディネイトが流行した1972年に発売されたのが、“シームレスカップブラ”だ。この「縫い目(シーム)のないブラジャー」は、発売と同時に爆発的な人気をよび、以後10年近くもベストセラーであり続けた。“シームレスカップブラ”のカップは、ウレタンフォームの角材から椀状にくりぬき、それを女性のいちばん美しいバストの形の金型で熱成型している。この美しいバストの金型を作れたのは、1964年から日本人女性のからだを研究し続けてきた“ワコール人間科学研究所”があったからこそ。当時のポスターには「ニット姿に自信が生まれる。」「まるいから、自然だから、ひびかないから…ニット党のおしゃれにぴったり」とのコピーがある。まさに、「ファッションを楽しむためにブラジャーを選ぶ」という新しい概念を提示し、女性の意識を改革した製品であった。
1960年代
「素材革命」伸びる素材の登場で
女性がより自由に活動的に
社会背景
1950年代から続いた高度経済成長は、1964年に開催された東京五輪開催時には頂点を迎えつつあった。世界に目を向けると、1960年にはベトナム戦争が勃発し、それに反対する若者達の間でヒッピー文化が生まれ、1947年生まれを中心とする「団塊の世代」。総数1000万人にものぼり、「若者」というアイデンティティをもとに、政治的にも文化的にもさまざまな社会現象を生み出していった。戦後政治の見直しをせまる学生運動が広がり、グループサウンズ、アイビー・スタイル、フーテン族などの若者風俗が登場していったのである。
ファッション
それまで、ファッションの流行を支配していたのは、少数の人のためのオートクチュールだったが、1960年代になると、本格的な既製服の時代になる。その既製服の発展を支えたのは、技術革新が生んだ化学繊維である。化学繊維は天然繊維に変わる理想の繊維として広まり、利便性をもたらした。1960年代のはじめに、ロンドンでマリー・クワントが売り出したミニスカートが世界的に流行。1967年、「ミニスカートの女王」と呼ばれたツィッギーの来日によって、コケティッシュなスタイルが人気となる。それまで膝から上を晒すことなどタブーだった日本人女性が、初めて“手足のほっそりした美しいスタイル”を意識し始めた時代であった。
1966年発売“ウイングブラ”
ストレッチ素材を使った
“ウイングブラ”で
機能性も装着感もアップ
DETAIL
“ウイングブラ“


ストレッチ素材を使った
“ウイングブラ”で
機能性も装着感もアップ
1960年代に入ると、新しい技術や素材によって、下着もめざましく進化した。1961年には、ブラジャーに造形機能をもたせるための立体製図による“ベルフラワーブラ”を発売。フィット感とつけごこちが飛躍的に改善されたこの商品は、「これぞブラジャー」といわれ、今日の機能派ブラジャーの基礎となっている。同時期、東洋レーヨンがデュポン社と提携してライクラを輸入し、「オペロン」という商標で発売することとなり、ワコールもこの「奇跡の糸」を使って“ワコールガードル(オペロン)”を発売した。この新素材は下着の機能性を高めるだけでなく、軽い着用感がからだをしめ付けることからの解放につながり、下着の歴史を変え、女性のマインドも変えたのである。1964年には、このスパンデックス繊維を前面に打ち出したブラジャー“ストレッチブラ”を発売。1966年になると、ストレッチ繊維を使った補整機能のある下着を次々に市場に投入。春には “フルストレッチブラ”を発売。続く“ハイストレッチブラ”の素材は綿に近い風合いを持つので、日本人には親しみやすく、価格面でも魅力のある商品だった。そして、同年秋冬商品として発売されたのが“ウイングブラ”。「ウイング」というネーミングには、羽のように自由にからだを動かせる、というメッセージが込められている。この“ウイングブラ”は、“ストレッチブラ”、“フルストレッチブラ”、“ハイストレッチブラ”の集大成とも言える商品。「のびるブラ」「呼吸するブラ」と呼ぶにふさわしい商品が完成したのである。
1950年代
「戦後の日本女性を美しく」
日本の洋装下着文化がスタート
社会背景
戦後の復興期から高度成長期へとめまぐるしく変化した1950年代。物流は発展し、モノは溢れ、暮らしは豊かになり、女性の衣服は和装から洋装が主流に。それに伴い、ペチコートやコルセットなどで女性らしいラインを作る下着が流行した。第一次下着ブームと呼ばれたが、ブラジャーなどはまだまだ「若い女性がよそゆきにつけるもの」という認識だった。
ファッション
次々と流入する西洋文化が、ファッションにも色濃く反映されるようになる。クリスチャン・ディオールが提唱したウェストをきゅっと絞ったニュー・ルックが流行するなど、パリのモードが日本を席巻。また、映画『麗しのサブリナ』(1954年)がヒットし、主演のオードリー・ヘップバーンの髪型や服装を真似する女性が急増した。
1954年発売“ワコールはじめてのブラ”
アウターの流行に合わせた
“ホルターネックブラ”登場
DETAIL
“ワコールはじめてのブラ”

アウターの流行に合わせた
“ホルターネックブラ”登場
女性達がプロポーション意識に目覚め、下着にも目を向けるようになるのに伴い、和江商事の商品構成もバラエティ豊かになっていく。1954年にはホルターネックタイプのブラジャーが発売されているが、これはデザインによる初の実用新案を取得した商品である。長さを調節できる肩ひもを、左右のカップ上部から首の後ろに回して付けることで、肩ひものすべり落ちをなくし、より軽快な動きが得られるというもの。この商品が開発された背景には、映画の中の衣装などに影響を受けた、当時のファッショントレンドがある。他にもストラップレスのブラジャーなども、すでに販売されている。1956年頃から日本に第一次下着ブームが到来。1956年春には、トップバストが30、32、34、36インチの4サイズ、カップサイズがAA、A、B、Cの4サイズへと改定された。そして、1957年和江商事は、ワコール株式会社と社名を変更し、新たなステージへと進んでいく。
1949年発売“ブラパット”
創業者、塚本幸一考案の
ブラジャーが誕生
その後8年間、売上トップに
DETAIL
“ブラパット”

創業者、塚本幸一考案の
ブラジャーが誕生
その後8年間、売上トップに
1950年3月、和江商事は京都室町でブラジャーの生産を開始。創業者の塚本幸一は1949年に発売した“ブラパット”の使い勝手や、肌あたりを改善するために、“ブラパット”を入れる内袋のついたブラジャーを開発。カップのサイズは同じで、脇布の長さによってS・M・Lの3サイズを用意。この独自開発によるブラジャーは、“ブラパット”とブラジャーのセット販売で、売上を大きく伸ばした。そして、1951年には、その後8年間売上げトップとなるブラジャー「1001番」を発売。和江商事は下着メーカーとして、本格的に歩みだすこととなったのである。1952年に大阪の阪急百貨店で日本初の下着ショーを開催。定員300人のホールは毎回満員となり、大成功をおさめた。「ワコール」という商標に変更したのも、この年のことである。その後、1953〜1954年にかけては下着ショー全盛期となった。